囲碁で初手の小目の位置とかの話
囲碁には暗黙のマナー的なものがいくつか存在するのですが、そのことで気になったので少し。
囲碁にはあまり明言はされていませんが、高段者以上になるとみんながなんとなく守ってるマナー的なものがいくつか存在します。例を挙げると、
- 初手で隅を打つ場合、右上に打つ。特に小目に打つ場合は右側に打つ
- ニギリをする場合、白側は8個以上石を取る
- 特に時間に追われていない場合、取石を取ってから時計を押す
- 秒読みのときにやむを得ず席を立つ場合は相手の手番のときに時計を止めて離席する
- ダメ詰めのときはできるだけ自分に近いほうから埋める。整地がしやすいよう団子石を作るようにするとなおよい
などです。
特に今回は一番上の小目の位置についてTwitterで話題になってたので僕が思うところについて少し書きます。
初手で小目に打つなら三角のところに打つという話です。
あまり本質ではないですが、一応なぜここに打つとよいと言われているかというと、以下の図のように赤いエリアのほうが青いエリアよりも価値が高いと一般に思われているため、次に相手は赤いエリア側の隅に着手する可能性が高い(実際に高い)ことを考慮し、相手に左上に打たせる(青)よりも右下(赤)に打たせたほうが相手が打ちやすいからその配慮です。
どこの小目に打っても同じだし、そういう話があるのならじゃあ一応そこに打つか程度で多くの人はそうしているんだろうと思いますし、知らない人がいても別に知らないんだなというぐらいで話は終わりだと思っていたのですが、どうやら話を知ったうえであえて違うところに打ってもいいじゃないかという主張をする人たちがいるようなのでこの記事が生えてます。
まず誤解してほしくないので先に言いますが、たとえ相手が初手で右上に打たなかったとしても、相手の小目の位置が違ったとしても、それは批判することではないです。相手が意識的でないようなら、検討のときとかに、一応ここら辺打つらしいよーぐらいのノリで伝えればいいと思います。多分、それを必要以上にうるさく咎める人がいるのもこのような暗黙のマナーなどが批判されてしまう理由になってしまっています。
しかし、暗黙のマナーと思われているぐらいですから世の中にはこのことを破ると不快に感じる人は実際にいます。特に理由もないのに敢えてそれを破って相手に不快な思いをさせる可能性を生じさせるのもおかしな話です。敢えて暗黙のマナーを破るのならば相手を不快にさせてしまうかもしれないという可能性を考慮したうえで、それよりもメリットがあると感じることができるのならば破ればよいと思います*1。
と、ここまでが話の前置きですが、Twitterなどを見る限り反発派の主張としては囲碁は自由なんだからそんなのは悪習だというものや、プロや高段者でも守ってない人がいるというものや、別に二手目の位置の配慮なんて意味がないというものがあったのでこの3つについて書いてみます。
囲碁は自由なんだから初手の位置も自由でいいじゃないかという主張
個人的にはこれが一番謎なんですが、囲碁の自由度ってそんなレベルの低い次元の話じゃないはずです。初手の小目の位置なんて碁盤の反転・回転で結局は同じことなのだから、そこに存在する自由ってもはや自由なんですかと呼べるレベルのもので、その先に広がる囲碁の自由度は宇宙レベルなのだからそこで自由を主張して別の小目に打つのはちょっとよくわからないです。
プロや高段者でも守ってない人がいる
守ってない人はいますが、明らかに守ってる人のほうが多いです。また、外国では守っていない人が多いという話もありますが、あくまでも割合的に多いというだけであって、外国でもこのようなマナーを意識している人はいます*2。また、多くの人が守っているのに誰々が守ってないからといって守らないのは変な話です。
別に二手目の位置の配慮なんて意味がないという主張
ここを書きたくてこの記事を書いているので、なんか無駄にここを語ります。
実際、相手側からしても二手目の着手の箇所が確率的に物理的に近い位置になるというメリットはほぼないに等しいです。しかし、そのような配慮が存在することに囲碁が文化と呼ばれる所以の一端があると思います*3。
文化とは、明言されていない細部での心遣いや技術が本質であり、それを暗黙のうちに共有するのがその楽しみ方です*4。例を挙げると、例えば茶道では*5、多くの所作がありますがそれ一つ一つに意味があり、何も知らない人には煩わしいだけですが、共通理解として一つ一つの動作に意味を感じることができて初めてそれを楽しむことができます(多分)。絵画などにしても*6、作品の背景知識や技術的な知識などを踏まえた上で鑑賞することでより楽しむことができます(多分)。囲碁も同様で、お互いに囲碁の知識や技術が磨き、お互いの一手一手を理解し合おうとしていく過程が文化といわれるゆえんだと僕は思います。
今回の小目の話もその一部です。それ自体に実際的な意味があるかどうかはともかくとして、そのような共通理解をもとに小目を右上隅の右側に打ちます。もしそこで違う箇所に打ってきた場合、ほんの些細ではありますが、文化への理解を共有することができず寂しい思いをします*7。文化というのは個人の感覚に強く依存するので、人によっては一切こういうことを思わない人もいるかもしれませんが、少なくとも僕はほんの少しではありますがこのような感覚があります。
また、それならば全部明言化しろという話もあると思いますが、それは文化的じゃないです。例えば、絵画にしても作者はその作品の詳細を事細かに説明するということはない(はず)です(多分)。なぜならそれをしたら作品の深みを失うからです(多分)。囲碁にしても、一つ一つのマナーなどを事細かに記して守らせれば楽といえば楽ですが、それは美しくないですし、そこに文化の精神は存在しにくそうです。少し違う話かもしれませんが、日本式の囲碁のルールが少し曖昧なのもこの辺に由来しているのではと個人的には思っています。確かに実用的には中国ルールのほうが合理的ですし、プログラムなども楽ですが、あくまで文化的観点としては日本式のほうが美しいですし(少なくとも僕的には)、終局条件などを相手との合意などで決めるあたりも文化を感じて僕は好きです。
というわけで、その行為そのものについての意味というより、文化的な観点として初手の小目の位置には意味があると僕は思います。
まとめ
結局何が言いたいかというと、別に大した理由がないのなら暗黙のマナーの通りに打てばよくない?ということです。そもそも初手の位置がちょっと制限されたからといってそんなに反発したくなるものですか???*8
連敗の気持ちを切り替えるなどの理由などにより初手の位置を変えてみるなどは個人の自由ですし、それこそルールではないので自由に打てばよいと思います。
最後にもう一度言いますが、相手が守らなかったからと言ってそれを不快に感じたり咎めたりするようなものでは決してないです。ただ、敢えてそのルールを破っていこうという流れが実際に存在することは、相手への配慮なり、文化的側面なり、僕は少し寂しく思います。
おわりに
記事にもあるように、このようなことを文字に起こしてしまうのは文化的でないから書きたくなかったんだけど、なんか敢えて破るムーブが起こってたからね…